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拍手レス:まやさん

初めての拍手レスが一か月遅れとか……僕を殴れ。

まやさん、拍手ありがとうございます^ ^ 文豪はよいものですね!!
もうすぐ太宰まとめをPixivにあげる予定です。もう一枚くらい描ければ……w
どうぞこれからもよろしくお願いします!
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ことばと小説の話

前回感受性の問題について書いたが、今回は予告通り、ことば、ということについて少し書こうと思う。

 ことば、というのは不思議なもので、社会の構成員がほとんど自在に使えるように見えて、実はややこしいものである。普段ことばを使っているときには、それほどことばについて意識しないでも何とかなる。例えば、日常生活では、我々は必ずしも正確なことばを使っていないのだけれど、それでも「なんとなく」通じる。もちろん誤解や、ちょっとしたイメージのすれ違いはあるけれども、それを含めて、ことばは、コミュニケーションの道具として成り立っている。

 けれども、小説において、「ことば」と「ことばを発した者の持っているイメージ」、「発せられたことばから受け取られるイメージ」の溝について考え出すと、途端に事態がややこしくなる。例えば、私は先日自分の書いた小説を読んでもらう機会があった。そこに登場する女性の登場人物の身体的特徴を、私はあまり書き込まないでおいたのだけれども、私のイメージでは、彼女はあまり美人でないつもりでいたのである。ところが、読んだ人の大多数が、彼女を美人であるというふうに想像した。これにはちょっと驚いた。その場で私は、彼女はあまり美人でないと言ったのだけれども、ふつう、小説が読まれる場合、作者はこういう追加説明はできない。文章がすべてである。読者はそこから、イメージを汲み取るほかない。
 こういった、作者の意図と読者のイメージのずれは、どんな作品にもあり得るものである。例を挙げると、一般に抱かれているシャーロック・ホームズのイメージは、挿絵や映像に負うものが大きく、作者自身は当初、ホームズを愚鈍そうな見た目の男だと考えていた。

 (この場合、読者は作者の意図だけを尊重すべきものだろうか。そうする義務はないと私は考えている。むしろ、今の時代においては、読者や映像のイメージが、作者の方に影響を与える例もある。「ハリー・ポッター」シリーズの作者であるJ.K.ローリングが、エマ・ワトソンの容姿を踏まえて、後の巻になるほどハーマイオニーを美人にさせていったことを思い起こしてみると、それがよく分かる。これほどまでに、読者のイメージが力を持っている時代というのは、今までなかった。)

 とすると、小説を書く者は、登場人物のイメージを読者に誤解されたくない場合、できるだけ細かく、正確に書いて、読者に「正しい」イメージを伝えるべきだろうか? 実は、私はこれに疑問を抱かざるを得ない。いくら詳細に描写したとしても、読者がその小説を読むとき、必ず数ミリの誤解が生じる。これは文章の性質上、仕方のないものである。もしその小説が映像化されて、読者がその映像を見てから原作を読む場合など、ほとんど必ず、読者は映像化されたものを念頭に置いて小説を読むだろう。そうなると、小説というものは、読者の「誤解」を含めて成り立っている、ということになる。「正しい」イメージというものは、最初から存在しないし、無意味なのだ。

目を鍛える、という話

前回のブログの翌日、無事入院することができ、六日ほど(これはかなり短い期間だったのだけれど、色々と事情があってこれ以上いられなかった)病院で過ごした。

 部屋は一人部屋しか空いていなかったのだけれど、これは私の精神にかなり良かったと思う。毎日朝早くに起き、三度三度食事を取り、本を読んだり外出許可を取って買い物に出かけたりして時間を過ごし、夜は日付が変わる前に寝る。これは全く人間らしい生活だった。病院の中でしか人間らしく生活できないのは、全く私の意志薄弱のせいである。恥ずかしいことだけれど、管理されないとろくな生活が送れない。帰ってからも同じような生活を心がけているのだけれど、どうもうまくいかないでいる。それでも、以前よりかは、ましになったように思う。

 最近感受性の問題を考えている。感受性というのは、たぶん、どれだけ細かな違いを見分けられるか、ということであって、おんなのひとの肌の色や、見越しの松のしなり具合や、陶器の色かたちが、朝晩でどれだけ違うか、また他のものと較べてどう違うか、そういうのが分かることだ。私はこの感受性が、ひどく乏しい。まったくものを見ていないに等しい。高校生の頃は、それでも少し文章に関しては見る目があって、世界史の教科書などで、ここまではある著者、ここからは別の著者が書いていると断定することができたのだけれど、最近はそれも少し自信がない。
 なぜ感受性がないか?理由は分かる。考え事ばかりしているからだ。それか、ぼんやりしているからだ。(後者の方が理由として強い。)ぼんやりしているから、昨日と今日とで桃の花の開き具合が違うのが分からない。今年に入ってから、それでも気を付けてものごとを見るようにしているのだけれど、やはり気がつくとぼんやりしている。

特に、ことば、というものに対して、私は自分がいかにぼんやりしているかということに気づいて、自分に腹を立てているのだけれど、言葉について語ると長くなるので、これはまた別の機会にしよう。

とりあえず、新潮版の芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』を読み終えた記念に、「歯車」の落描きを描いたので、ここに載せておく。歯車素材はpixivのちさた様からお借りした。





精神病院に入院しそこねた話

――「よし、承知だ。こいつと影とを取り替えよう!」
   私は男の手を握りました。すると男はこちらの手を握り返し、ついで私の足もとにひざまずくと、
   いとも鮮やかな手つきで私の影を頭のてっぺんから足の先まできれいに草の上から
   もち上げてクルクルと巻き取り、ポケットに収めました。
                                    シャミッソー作 池内紀訳 『影をなくした男』より



ああもうだめだ、もうだめだ、このままではいけない、入院しよう、と思ったのが一昨日のこと、昨日は寝坊し、今日いよいよ近所の病院に行った。入院のための紹介状を書いてもらうためである。ここいらで精神病患者を収容してくれる病院はない。
 別に絶望してはいなかったし、死のうという気もさほど強く感じてはいなかった。どういう訳か、入院を決めたとたん気分がすっと晴れて、むしろさわやか、いわば無我の境地にまで達してしまったらしい。一昨日、部屋を歩き回り、いきなりぐてりと倒れ込み、そのまま動けなくなって、びょいびょい泣き、私は余計者だ、余計者だ、と破れかぶれに叫んでいたのが嘘のようだ。苦しい状況に置かれた人間がそれまで七転八倒していたのが、死を覚悟したとたんに心穏やかになる、というのはよくあることだけれども、それに似ている。どうやら、覚悟、してしまったらしい。


 双極性感情障害、という長ったらしい名前の男が(頼みもしないのに)にやにやしながらおい、友達になろうよ、と声をかけてきたのが三年前、以来この男にずっと安酒で酔わされている。こいつの安酒は、たちがわるい。酔っているときは徹夜も平気、なんでもやってやろう、という気持ちでずいぶんおかしなこともやらされてきた。それはまだいい。問題は、その後、酔いがさめてからで、二日酔いが何日、何週間、何か月と続く。頭が痛くなる。その二日酔いのせいで、氷の張った池に飛び込もうかと思ったこともある(その時私はイギリスの地方都市にいて、例年にない雪が降っていた)。二階から飛び降りようと屋根の上に乗って、野良猫に諭されたこともある。でも、入院しようと思ったのは、今回が初めてだった。

 九時の診療開始から間もない頃に病院に飛び込んだのに、待合室にはすでに五、六人患者がいた。一時間待ちだという。仕方がないのでいしいひさいちの『現代思想の遭難者たち』を読む。大学・院時代とお世話になった懐かしい名前が並んでいる。おやっ、あれは私の好きなバフチン。名前はおかしいけれど思想はとびきり独創的で魅力的なバフチン。猥雑と神聖の入り混じったカーニヴァレスク理論。いいなぁ。私、病気が治ったら、バフチンを勉強し直すんだ。
 全然頭に入ってこない。
 別にいしい氏を非難しているわけではない。私の頭が悪いのだ。この安酒には頭を悪くする効果がある。少しでも難しいことがらは、いくら理解しようとしても、頭をすり抜けていく。私の頭がもとから悪いからだって?それはそうかも知れない。けれども、双極性感情障害だの、うつ病だのといった輩と付き合ったことのあるひとは、一回は自分の頭が悪くなった、と思ったことがあるに違いない。
 『現代思想の遭難者たち』を置いて、ひたすら待つ。呼ばれる。先生はいつも陽気だ。陽気でないと勤まらない商売だ。入院したい旨を伝え、紹介状を書いてもらう。できれば、今日今すぐに入院したい気分だった。家には、旅行よろしくお泊りセットが用意してある。退屈しないよう、本を三冊もつめこんでいる。けど先生、気楽な口調で、
 「今日はだめかも知れないねぇ。病院は遠いし、向こうの診察は午前中までだから。まぁ、電話をかければ大丈夫でしょう」
 あらっ、やだ。入院先の診察は午前中までだったんですか、先生。
 「今は無我の境地、と書いておきましたからね」
 あのっ、そんな表現まで忠実に再現しなくてもいいです、先生。
 紹介状と入院先の地図を貰い、病院を出るやいなや携帯(アイフォン。名前はジョン。)を握りしめる。
 「あのう、紹介状を貰ったんですが、今日から入院できますか」
 「申し訳ありませんが、診察は午前十一時までですので、明日来て頂けますか」と気楽な受付の声。気楽でないと勤まらない商売だ。
 相手によると、向こうに行って、診察を受けてから、入院するかどうか決めるとのこと。そして、
 「あのう、お部屋によって、お値段が違うんですけれども、よろしいですか」
 「普通の部屋って、どのくらいですか」
 「うふふ。普通のお部屋というのはございませんので。一人部屋とか、相部屋とか」
 まるで旅館の予約だ。しかも、場合によってはその日に入院できず、予約ということになるらしい。待っている間に私が二階から飛び降りたらどうする。双極性感情障害氏は、いつ私を二日酔いにさせるか分からない。
 とはいえ、精神病院も四次元に建っているわけではないので、その時はその時、いつも通り、自分の布団の上でぼたぼた涙をたらしながら、死ぬべきか、死なざるべきかと煩悶するしかない。
 私は電話を切った。
 そして今に至る。帰る前にこの間うっかり踏んでしまった眼鏡の代わりを買ったが、それはつまらないので割愛する。



 明日、朝早く家を出て、病院に向かいます。もし私が明日から数日間、いえ何日間になるか分からないのですが、このブログが更新されていなければ、私は精神病院にいます。
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