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ことばと小説の話

前回感受性の問題について書いたが、今回は予告通り、ことば、ということについて少し書こうと思う。

 ことば、というのは不思議なもので、社会の構成員がほとんど自在に使えるように見えて、実はややこしいものである。普段ことばを使っているときには、それほどことばについて意識しないでも何とかなる。例えば、日常生活では、我々は必ずしも正確なことばを使っていないのだけれど、それでも「なんとなく」通じる。もちろん誤解や、ちょっとしたイメージのすれ違いはあるけれども、それを含めて、ことばは、コミュニケーションの道具として成り立っている。

 けれども、小説において、「ことば」と「ことばを発した者の持っているイメージ」、「発せられたことばから受け取られるイメージ」の溝について考え出すと、途端に事態がややこしくなる。例えば、私は先日自分の書いた小説を読んでもらう機会があった。そこに登場する女性の登場人物の身体的特徴を、私はあまり書き込まないでおいたのだけれども、私のイメージでは、彼女はあまり美人でないつもりでいたのである。ところが、読んだ人の大多数が、彼女を美人であるというふうに想像した。これにはちょっと驚いた。その場で私は、彼女はあまり美人でないと言ったのだけれども、ふつう、小説が読まれる場合、作者はこういう追加説明はできない。文章がすべてである。読者はそこから、イメージを汲み取るほかない。
 こういった、作者の意図と読者のイメージのずれは、どんな作品にもあり得るものである。例を挙げると、一般に抱かれているシャーロック・ホームズのイメージは、挿絵や映像に負うものが大きく、作者自身は当初、ホームズを愚鈍そうな見た目の男だと考えていた。

 (この場合、読者は作者の意図だけを尊重すべきものだろうか。そうする義務はないと私は考えている。むしろ、今の時代においては、読者や映像のイメージが、作者の方に影響を与える例もある。「ハリー・ポッター」シリーズの作者であるJ.K.ローリングが、エマ・ワトソンの容姿を踏まえて、後の巻になるほどハーマイオニーを美人にさせていったことを思い起こしてみると、それがよく分かる。これほどまでに、読者のイメージが力を持っている時代というのは、今までなかった。)

 とすると、小説を書く者は、登場人物のイメージを読者に誤解されたくない場合、できるだけ細かく、正確に書いて、読者に「正しい」イメージを伝えるべきだろうか? 実は、私はこれに疑問を抱かざるを得ない。いくら詳細に描写したとしても、読者がその小説を読むとき、必ず数ミリの誤解が生じる。これは文章の性質上、仕方のないものである。もしその小説が映像化されて、読者がその映像を見てから原作を読む場合など、ほとんど必ず、読者は映像化されたものを念頭に置いて小説を読むだろう。そうなると、小説というものは、読者の「誤解」を含めて成り立っている、ということになる。「正しい」イメージというものは、最初から存在しないし、無意味なのだ。

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